108観音

 

2010年に開催された上海万博を観に行った。

長い列を待ってやっと入ったネパール館に展示されていた仏様は、

綺麗だったし圧倒的だった。

仏様が迫ってきて何か訴えてきてるような気がした。

画像はその中にあったネパール108観音80番目の、

「大金剛薩埵観自在(だいこんごうさったかんじざい)」。

このタンカが「彩雲」をやるきっかけになった。

108観音ぜんぶを揃えることはできなかったが、

いつか全部を揃えることができたらいいなと思ってる。

hyakka-saiun.com

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日本の伝統文様

昔、父が家に飾っていた「風神と雷神」の絵を掃除していたら見つけた。

少し古くなってよれているが、仕事部屋に飾った。

神様は大切にしなければ。良いことがありますように。

 

「彩雲」以外にもう一つネットショップの「貴石工房パック」があって、

そこに水晶に彫った「日本の伝統文様」シリーズ22種類があります。

風神と雷神もつくりました。

他にも花、ハッピーモチーフ、ホピ族のシンボルシリーズがあり、

この4シリーズは全部オリジナルです。

ご興味があればぜひご覧になってください。

stone-puck.com

 

 




 

 

不動明王

僕は酉年うまれなので、守護仏は『不動明王

だからというわけではないが、いちばん好きな仏さまは?と聞かれたら、やっぱり「不動明王」。

見た目は怖いが、かっこいい。

不動明王は「煩悩に溺れる人々を叱りつけ、力ずくでも救わなければ」

と、考えた大日如来が変身した姿。

脅し怖がらせ嫌われてでも人間を救おうとする。不動明王はこの上なく優しい仏さま。

不動明王不動明王密教五大明王の中心となる明王。梵名のアチャラ・ナータは「山のように動かない者」という意味です。

ヒンドゥー教の破壊と再生の神、シヴァが源流と考えられる密教の尊格。シヴァ神と同じく青色の体をしています。大日如来の変化身、または教令輪身(きょうりょうりんじん)として無明に迷う衆生を強い力で導きます。教令輪身とは大日如来が導き難い相手に対して忿怒尊の姿をとることをいいます。日本には空海真言密教とともにはじめてもたらしました。

不動明王は、眷属(けんぞく)として八大童子を従え、とりわけ脇侍として制吒迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)が有名です。

右手には煩悩や憎しみを切り捨てる「智慧の剣」、左手には道に迷いそうな人を縛って、正しい道へと連れ戻す「羂索(けんじゃく)」を持っています。髪は索髪(さくはつ)というおさげ型にして左に垂らし、頭には蓮華を載せています。また、バックには燃えさかる炎のような火焔光背(かえんこうはい)があり、これは人間界の迷いや煩悩を聖なる炎で焼き尽くすという意味が込められています。

五大明王とは五大尊,五忿怒ともいい、真言密教不動明王を中心として四方に配され、魔を降伏させる5明王です。中央が不動明王、東方が降三世明王、南方が軍荼利明王、西方が大威徳明王、北方が金剛夜叉明王で、いずれも忿怒の形相をしています。(天台密教では金剛夜叉明王にかえて烏枢沙摩(うすさま)明王となります)

不動明王真言「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」

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愛染明王

ネパールからタンカがやっと届いた。

注文して約半年かかった。

図柄は同じで、

金泥だけで描いた愛染明王と、

金の光輝性の顔料で描いた愛染明王

金泥は、純金からつくったもので細い線を描くことができ、金は渋く輝く。

金の顔料は、金泥ほど細く線は描けないが、金は明るく輝く。

愛染明王サンスクリット名はラーガ・ラージャ。なんとなくかっこいい。

来月中には「彩雲」に掲載します。

 

愛染明王

愛欲とその裏返しである怨憎の両方を整えて、人々を悟りの心へと導く愛染明王

愛欲貪染(あいよくどんぜん)をそのまま菩提心に変える力を持つ煩悩即菩提を象徴した明王

人間のさまざまな欲望は悟りへのエネルギーへと転換できるというのが愛染明王の教えです。

愛の字が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などの願いを叶える仏として古くから信仰されています。


来月には孔雀明王も届く予定です🌙

 

 

 

孫とじいちゃん

きょう、12時に孫娘と待ち合わせ。  

お誕生日祝いということで一緒に食事をして、プレゼントを渡す。

と言っても、女の子で中学生、おじいちゃんには何を買っていいかさっぱりわからない。

なので、「これで好きなものを買ってください」と言って用意した封筒を渡すつもり。

3年くらい前までは頻繁に会って食事も一緒にしたが、最近はお正月と誕生日くらい。

それでも幸せだと思う。孫とじいちゃんの二人での食事にまだ付き合ってくれる。

 

どこで食事をするかなって考えて、決めた。

随分前に一緒に行ったことがあるレストラン。

ここで、たぶんまだ7、8歳だった孫に言われた。

「もう一度子供になれたら何がしたい?」

僕は、これもあれもとたくさんしたいことを答えたのだが、

「何も上手になれないね」と返ってきた。

あのときは妙に納得した。なるほどそういうことかと。

僕はいろんなことに興味が湧いてしまって、結局器用貧乏なところがある。

 

ある人に、こんなことを教わったことがある。

どんなことでも3年間本気で死ぬほど努力すれば、誰でも80%まではいける。

まっすぐな階段を上がるように、一歩上がれば景色も違ってくる。

でも、プロというのはその先の領域に入った人のこと。

階段はまっすぐではなく、超緩やかならせん階段になる。

上がっても上がっても景色は変わらず上がったように思えない。

81%以上は、それを一生取り組む気持ちがなければやらないほうがいい。

たしかこのようなことを言っていた。

 

一生取り組む気持ちがもてるもの。

それは生きていくために必要だからとか、お金とか名誉のためだとかよりも、

ただ単純に無性に無條件に好きなものだからという理由のほうがいいな思う。

こっちの方が超緩やかならせん階段を少しでも楽しめる。

でも、この歳になってもまだ新しくやってみたいことがある。

あほかもしれない。

やっぱり僕は一生を掛けて取り組みたいものはたくさんあってもいいんじゃないかと開き直るしかない。

きょう、孫と一緒に食事をしたときに聞いてみようと思う。

「一生掛けて取り組みたいものは何個ある?」