3歳の孫娘に聞いた。
パパは何?
「パパは王子様だよー」
じゃじいちゃんは?
「じいちゃんはどらえもんー」
・・・たしかにパパはかっこいい。
そして私は体つきがどらえもんに似ている。
3歳児は見たまんまを言葉にする。シンプルでわかりやすい。
考えてみると、私の記憶は3歳ころから始まっている。
孫娘とおなじように保育園に入っていた。
覚えてる。集団が苦手でいつも脱走のチャンスを窺っていた。
実際に何度も脱走し、母の職場、父の職場に逃げ込んでいた。
両親の困った顔が今でも目に浮かぶ。
幸い孫娘はわたしと違い脱走はしない。保育園が好きみたいだ。
よかった。
そうか。孫娘の記憶もこれから始まる。
かっこいいじいちゃんは無理だが、
優しいじいちゃんとして記憶にと留めてもらえるようがんばろう。
しかし、なぜだろう。
3歳のころの私と、じいちゃんになった今の私は、
幼さなかった私と、成長し大人になった私に区別できるかというと
そうではないみたいだ。精神性はさほど変わらないような感覚だ。
3歳のころの私の気持ちがよく理解できる。
10歳の頃、20歳の頃、30歳の頃の私にも思いを馳せてみる。
やっぱり今の私とさほど精神性は変わらないように思えるし、
そのころの私の気持ちがよくわかる。今の私と別人ではない。
大人になるということは、中身はそのままで、
外側だけがかわっていくことかもしれないと思う。
頭の毛が薄くなり、腹がでて、肌がたるみ、すぐに眠たくなる。
大人になる、じいちゃんになるということは、
子供のころに想像していたものとはまったく違っていた。
一方向的に一人格として成熟し完成されていくことではなかった。
じいちゃんの中にはすべての年代の自分がそのままいる。
幼稚な自分、血気盛んな自分、分別顔の自分が同時に存在している。
たぶん、元(本質とか魂とか)は一つだが、
人格は一つではなく、多重な人格(多様性)をもつものが大人になるということだろうか。
可愛い孫のことを書こうと思ったが、脱線してしまった。
孫との会話はまた今度。