言葉のやりとりはエネルギーを使う。
昔から議論とか討論とか、テンポの速い会話は苦手で、
できれば避けたいのだが、生きていれば必要な時もある。
お互いに一所懸命に喋る。
でも、その内容は相手に半分も伝わっていないのではないだろうか。
特に自分の正しさを主張するとき、その殆どは伝わってないように思う。
相手には相手の正しさがある。そして正しさなどいくらでも湧いてくる。
それぞれが自分の世界をもち、
一人ひとり見えているもの、聞こえているものが違う。
正しいとか正しくないは関係なく、
心が受け入れることができないもの、
脳が理解しようとしないものはスルーする。
言葉のおかげで人類はここまで進化したが、
言葉はこの世に、人の数だけ異なる世界を創り複雑さを増した。
言葉の無かった時代は、言葉になる前のエネルギーを感じあって、
コミュニケーションしていたのだろうか。
もしそうなら、
言葉の無い時代の人の心はピュアでシンプルだったにちがいない。
想念とか気持ちが、そのまま相手に伝わるということは、楽だと思うが、
言葉を話すことが出来る僕たちは、心を透かされるのを怖がっている。
心はふわふわ、あっちへいったりそっちへいったりする。
丸くなったりとんがったり、ぱんぱんになったり萎んだりもする。
心はときとして手に負えない子供のようになる。
心に根っこのようなものや支えになるようなものや、
中心のようなものがあるのだろうか?
言葉のない時代の人たちには言葉が必要なかった。
心は辻褄が合わなかったり、混沌としてはいなかった。